刀剣談義


ここでは刀剣談義の数々を説明しています。


《刀の所有について》         《銘について》           《峰打ち》             《刀のガタつき》
《腰刀と打刀》                 《工芸品と戦場刀》      《刀工について》   《刀の鑑定書について》    
《太刀と打刀》 《試漸と刀》                    《美術館での説明について》
《金打(きんちょう)》
《天下三大槍について》
《かむ力と体のバランスについて》



《刀の所有》

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《銘について》

   刀にも偽物があります。悪い・安い刀に有名な銘を入れ高く売りつけるという事を商売にしていた人もいたようです。
  もし、逆に無名だったら良い刀なのに‥‥と言う場合には”銘を消す”そうです。鏨で銘の周りを叩き銘をきれいに無くすことは簡単に出来、偽名で下がった価値を刀本来の価値に戻すことが出来るそうです。

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《峰打ち》

   映画やテレビの時代劇では、主人公が悪者をやっつける時に良く”峰打ち”をします。
でも”峰打ち”は刀の刃が割れる恐れがあり、普通するものではありません。
”峰打ち”は嘘です。

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《刀のガタつき》

   映画やテレビの時代劇では、日本刀を構える時などに”ガチャ”と音を立てる場合が良くあります。かっこよく見せる手段として使用されていますが、あれは逆に刀の手入れが悪い証拠なのです。キチンと手入れをしている刀は決して一寸振った位で音はしません。
  手入れの方法として、普通は”ハバキ”を何枚かはさんで調整します。以外なところでは”皮”や”鉛の板”で調整する方法もあります。
※ハバキ:偏が金で、旁が示偏の祖という漢字です。

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《腰刀と打刀》

   刀は刃側を上にして腰に差す外装様式の刀剣です。此れに"腰刀(こしがたな)""打刀(うちがたな)"の2種類の刀があり、中世で刀と言えば腰刀、近世で刀と言えば打刀でした。
(1)腰刀(こしがたな)は中世では鞘巻・刺刀(さすが)・馬手差し(めてざし)・鎧通し(よろいどおし)とも言い、近世では小さ刀と言った。刀身は平造りを原則とし、冠落し造や鵜首造もあった。いずれも刃長1尺前後の短寸で無反りであった。現在の短刀に相当し、鍔は付けない。主な機能は”突く・刺す”や”敵の首を掻く”事であった。
「刀剣問答」には「腰刀云々鞘巻の事ナリ、常ニ腰ヲ離サヌ刀ナル故、腰刀ト云フ」とあります。
※馬手差しとは右に差す腰刀の事で、組み打ちなどの便宜から特に右脇に差します。。
(2)打刀(うちがたな)は太刀と刀の折衷様式の刀剣で、外装は刀様式で刀身は太刀と同じく”打つ”機能を持った。つまり”湾刀”であり、”打つ”機能を持った刀だから”打刀”と呼ばれました。
敵と打ち合う刀の意味であり鞘巻・馬手差し等の”刺す”の対になる刀剣の事。
中世前期迄は平造で、中世後期から鎬造となった。刃長も室町時代前期迄は1尺数寸程度と短かったが室町時代後期(南北朝時代)に2尺以上の長い刀剣が流行するに従い、刺刀も長くなり、それが打刀や脇差になり現在に至っています。
2尺以上の長い打刀と短寸の打刀(脇差)の組み合わせを大小と呼び、大小を同時に帯刀する事が武士の象徴となっていきました。

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《工芸品と戦場刀》

   刀には"工芸品(入念作)""戦場刀(量産品)"の2種類の刀が存していたそうです。現在残存しているのはその内の"工芸品"として作られた刀です。
  "戦場刀(量産品)"は戦争という目的の為に包丁鉄等安い鉄を材料に、鍛治職人を動員して作らせたものです。使い捨てですので残っていません。
  一方"工芸品(入念作)"として作られた刀は"刀工"が作った刀で、武士が大事に扱い、使わない時は”白鞘”で保管されます。
  所が"工芸品(入念作)"であるにも拘らず"戦場刀(量産品)"として価値を低く見られた刀があります。肥後の同田貫等です。これらは備前の"戦場刀(量産品)"に良く似ていたという理由で戦後、蔑視され今でも実しやかに言われています。


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《刀工について》

   刀は"刀工"が作ったと誰もが思っています。銘があればその銘の刀工が作ったと。しかし、刀は集団で作られます。例えば拵の縁金でも数人の手で作られます。
  ましてや、刀の”折返し鍛錬”では数人の職人が共同作業で鉄を叩き、練ります。そこに”刀工”が参加している場合もあり、いない場合もあります。
  そうやって出来上がった刀の内、出来の良い刀には銘が切られます。その銘はその職人集団の”代表”だったり、”責任者”であったりします。そうやって”銘”が付けられていくのです。
 例えば、
 ・後鳥羽院御番鍛治の一人”行平”や”行平”の師”定秀”の職業は”僧”で、寺で刀を作らせる責任者であり、
 ・月山(がっさん)は山形県にある月山周辺に居住した刀工集団の総称です。


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《刀の鑑定書について》

   刀剣の良し悪しを判断・鑑定する職業が存在したのは古今東西探しても日本だけと思われます。 古来より刀剣の鑑定で有名なのは本阿弥家です。本阿弥家九代目の光徳が徳川家より刀剣極め所と認定され、207石を与えられた。 本阿弥家には多くの分家があり、光悦・光瑳系の加賀本阿弥は特に有名です。 そして本阿弥家が発行する鑑定書が折紙形式だった為、以降折紙が鑑定書と同意語となりました。
折紙には鑑定結果のみならず鑑定の代金も大きく明記されていました。そして、代金五枚以上の刀剣にに限り折紙が発行され、 金子四枚以下は下札が発行されていました。
又、本阿弥家は古刀のみに折紙を付ける事になっていたが、田沼意次のに時代には「田沼折紙」などの言葉があったり、幕末に至ると慶長新刀にまで折紙を付けて、折紙の権威を失墜させている。 室町以降「研師兼目利三家」と称していた本阿弥・木屋・竹屋の三家の内本阿弥家は目利を独占し、残り木屋・竹屋は江戸時代になると、刀剣研磨師としてのみ幕府御用として残った。
又、刀装具に関しては幕府お抱え工の後藤家が後藤折紙を発行していました。
尚、現代では財団法人日本美術刀剣保存協会の鑑定が有名で、「保存刀剣鑑定書」、「特別保存刀剣鑑定書」、「重要刀剣鑑定書」、「特別重要刀剣鑑定書」を発行しています。


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《太刀と打刀》

 刀装の歴史を大まかに分けると、次のようになります。
  ・日本刀が現れた平安時代後期から鎌倉、室町初期頃までは所謂”太刀拵”だけ
    と思われがちですが、実際は上級武士が”太刀拵”で、徒士は”打刀拵”
    と両方の拵が存在していたようです。
    平安時代末期の『伴大納言絵詞』に「打刀佩用者とその外装」が描かれています。
    又、”太刀””大刀”も同じではなく厳密には
       ・踏張りがある”腰反り”と
       ・左右対称な”中反り(鳥居反り)” の違いがあります。
  ・そして、室町中期以降は”打刀拵”と変化しています。

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《試漸と刀》

 試漸での切れる条件はおおよそ次のようになります。
これらの条件が満たされないと、如何に日本刀と言えども、折れたり曲がったりします。
1.切れ味の良い刀
(1)砥ぎ:寝刃合わせにより、刃を鋸の刃状にギザギザにする。
      刀を美術刀として研いだ場合は、刃はギザギザには為っていません。
      従って、試漸用にには「寝刃合わせ」が必須となります。
      出来れば、試漸の前に研ぎ師さんにお願いして研いで頂く事をお勧めします。
(2)内反:柄内中心の位置をを内反りにして、「鉈」の如くします。
(3)鎬 :巻藁を斬る場合は鎬高の低い刀を、硬い物を斬る場合は鎬の高い刀を使用します。
      要するに、硬いものには「出刃包丁」を、柔らかい物には「菜っ葉包丁」ということです。

2.技
(1)間合い:刀身の斬る場所は切先から3分の1の所の通常「物打」と
       呼ばれている所で斬るのが原則です。
       日本刀の間合いは以外と短いものです。
(2)刃筋:刃の方向と刀が振られる方向が同じでなければいけません。
(3)角度:袈裟斬りの場合、30度〜40度の角度です。
(4)刀線:勢い良く、円を描い刀を回し、最後は引き斬りです

3.巻藁
(1)1昼夜水に良く漬けて置く事。

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《金打(きんちょう)

  堅い約束をすること。 江戸時代、武士が約束を守ることを示すために、 それぞれの刀の刃・鍔(つば)を打ち合わせたことに由来する。
自分がだいじにする金属製品を相手のそれと打ち合わせ、武士ならば刀の刃や鍔、僧侶ならば鉦(かね)、女子ならば鏡などの金属同士を、互いに打ち合わせてその証とした。 このような作法が始まったのは江戸期です。 そして当初は、刀の鍔と鍔、もしくは刀身同士を打ち合わせていましたが、 時代が下がるにつれて簡略化され、少し抜いて刀身を小柄で叩く、少し抜いて鞘に収めるように変化していきました。

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《美術館での説明について》

  日本刀の愛好者として、国内の博物館、美術館のあり方について意見を以下述べます。
  日本刀の解説には以下の順番に刀の特徴を述べる技法があります。
  ・まず長さ、反りなどを説明する
  ・次に、刀の姿、全体像の説明
  ・それから、地鉄、刃紋、帽子の説明
  ・最後に作者の時代、背景の説明
  これを見ることによって、私たちはその刀の特徴を実際に眺め理解しようと努力します。
  ところが、このような説明文がついているのは(筆者の少ない経験ですが)名古屋にある熱田神宮の宝物館だけでのようです。
  東京渋谷にある(財)日本美術刀剣保存協会が運営している刀剣博物館は時代、背景の説明はあるが、刀の姿、全体像の説明、地鉄、刃紋、帽子の説明が無い。
  東京上野の国立博物館も銘、長さ、反りの説明だけで実に味気なく国立博物館の展示とは思えません。
  博物館・美術館の目的の1つは「知らしめる」事であり、「見たければ見れ」の態度であってはならない筈です。
  是非、愛好者だけでなく一般の人にも判り易く説明して頂きたい。

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《天下三大槍について》

  天下三大槍と言われるものは、「日本号」「蜻蛉切」、及び「お手杵(おてぎね)」の槍の三作である。
  (1)「日本号の槍」は黒田節で有名な呑取槍と言われたもので、黒田長政の家臣母里田兵衛友信が大杯の酒を飲みほして福島正則から賜ったものである。 この槍は無名であるが、穂長二尺六寸一分(約79センチ)と長寸、大身の三角造で、平地には倶利伽羅の浮彫がある。
   この槍は、正親町天皇から将軍足利義昭が拝領し、その後織田信長、豊臣秀吉、そして福島正則へと伝わったと言う。
   その後、母里田兵衛から後藤又兵衛に渡り、又兵衛が主家を離れる時に母里家に帰している。大正年間に母里家から離れたが今は福岡市に寄贈され福岡市博物館に展示されている。    しかし、文献によると、織田信長以前の話は信憑性が薄いとの事である。 (2)「蜻蛉切の槍」は、穂長一尺四寸(約44センチ)で大笹穂形で、「藤原正真」の作である。    本田忠勝の所持する名槍として有名であり、天正10年の本能寺の変で家康公伊賀越えの際には本田忠勝はこの槍を打ち振って先頭を進んだと「徳川実紀」に記されている。    八代将軍吉宗は鹿角脇立兜の甲冑と蜻蛉切を見に本田屋敷を数度訪れている。
   名前の由来について、蜻蛉が止まろうとして切れたという伝承は身幅に対して重ねの薄い鋭利な平三角大笹穂形から来ており刺突ばかりでなく薙ぎ払うにも長けた武器と言える。 (3)「お手杵(おてぎね)の槍」は関東大震災で消失し現存しないが、穂長四尺六寸(約139センチ)の大身槍で、銘は「義助作」で室町後期の島田義助の作である。    名前の由来は鞘形が手杵に似ていたからと伝えられる。

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《かむ力と体のバランスについて》

  かむ力が均一になるように調整すると体のパフォーマンスが向上する可能性があるそうです。
  歯の根の末端部分には、脳神経の中で最大の三叉神経の先端の細かい神経がある。 かむ筋肉を使ってかみ合わせると、圧力が歯を介して神経に達する(圧力が大きいほど脳に伝わる信号も大きくなる)。 脳には骨格筋の緊張に関与する細胞があり、「強い情報が伝われば、骨格筋を動かそうという指令が発信されやすい」。
 逆に言うと、しっかりかめなかったり、かむ力が弱かったりすると、力を十分に発揮できるような情報が全身の筋肉に伝わらなく、パフォーマンスが落ちる。更に怪我の原因にもなるそうです。
その為に、一流のスポーツ選手はマウスピースを誂えるそうです。私たちはそこまでしなくても、かみ合わせの調整や虫歯・歯周病の治療は是非ともやっておきましょう。 火事場の馬鹿力も丈夫な歯があってこそのようです。
歯とパフォーマンスのメカニズムは下記のようになります。
 かむ−>歯の末梢神経−>三叉神経−>大脳−>全身の骨格筋へ

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