【自剛天新流抜刀術の源流について】

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楊心流

(剣・柔・居合・捕縄・忍・棒)
 秋山四郎兵衛義時は太宰府天満宮に参篭し柔術楊心流を開いた。
 医者でもあった為、接骨術を編み出した。
 技には、立捕り・座捕り・棒術(6尺、3尺)・小刀・居合・忍術・その他武芸・兵術百般がある楊心流はその成立に関与した武術家が、同時に医者でもあったため東洋医学の思想を色濃く受けている。
 技の中心をなすのは”胴釈”呼ばれる当身殺法であり、急所に対する攻撃が五臓六腑に与える影響について非常に詳しく研究されていた。
 この”胴釈”は後に各流派にそのまま取り入れられたと言う。
  ■時代:江戸時代中期〜
  ■著名剣客・武将・門下(架空人物も含む)等
  中村左京大夫義国(三浦揚心)、江上武経、戸塚英俊、秋山義時、大江仙兵衛、三浦与次右衛門

    大江仙兵衛→塩田甚大夫(鞍馬揚心流)

    大江仙兵衛、三浦定右衛門〜星野角右衛門(星野流組打居合)
    →藤田麓憲貞(為勢自得天真流)  


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柳生新影流

【新影流と自剛天真流の由来】によると、新影流は、上泉伊勢守秀綱(後武蔵守信綱と改む)の創始による兵法である。天文年間、武神の地「鹿島」に於いて愛州移香の影之流並びに松本備前守の鹿島神流を学び修得せし剣理剣法に自ら悟得したる兵法を加え、創意工夫を重ね遂に大成、人間の煩悩を断ちきる「摩利支尊天」に振る仏刀を奥源となし、不殺修身の活人剣をもって奥義とした。
 後、影之流に新の一字を加えて「新影流」と号した。永禄10年上泉秀綱は、大和柳生の庄にて柳生宗厳に新影流兵法の総てを伝授、後不双の印可状を授け正統二代を許した。更に、宗巌は師の兵法に新意を加え、柳生の剣となし「柳生新影流」と称した。

 柳生宗巌の高弟大野松右衝門家信は、兵法の認可と共に「柳生」の姓を拝受し、柳生松右衛門として同門の俊鋭有地内臓允元勝を帯同西下し一時長州萩藩にて兵法指南役として滞在せし後、筑前黒田藩に赴き、西国柳生新影流の道を開いた。一時期、有地内臓允が薩摩島津藩に指南役として赴くや、有地氏にかわって道統を継いだ三宅氏が福岡藩に招致され、武術指南役として居住。現在当時の免許巻物が数本残っている。自剛天真流もこの流から出ている。


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